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<雑誌インタービュー記事>
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a l i v e i n j a p a n
日本で「音楽する」外国人
文●小沼純一


タード・ローリー

クラッシックとジャズを横断、桐生を拠点に活動するトロンボーン奏者
「音楽家は、東京やニューヨークに引っ越ししなければならない、仕事のためにね。 でも、好きなところに住んで、そこに自分のシーンをつくるほうが意味がある」

群馬県桐生市に一家四人で住むタード・ローリーさん。 大学時代に知り合った奥さんのチャンドラさんと、 この土地で音楽や英語の教室を開き、コンサートを企画する。

「東京に一週間二週間行かないと、行きたくなる。 でも何日もいると戻りたくなる(笑い)。 もし最初に住んだ(群馬県)笠懸町から東京に引っ越していたら、 もうニューヨークに戻っていたと思うね。 いまはとてもいい生活。家族がよくないと音楽家はよくないし、逆もそうだよ」

ニューヨークのベッドタウンでミュージシャンの一家に生まれ、そばにはいつも音楽があった。 だから学校にはいったときはカルチャーショックだったという。

「小さいとき、みんながミュージシャンだと思った。 お父さん弁護士、何それ、楽器は?(笑い)」

いろいろな楽器で遊んでいたローリーさんがトロンボーンを 手に取るようになったのは、十歳のとき。 この楽器を吹いていた叔父さんが亡くなり、 引き継いだかたちになった。

「嫌いなところが多いけど(笑い)・・・でも、音が好きだし、 声と近いかんじ。ピッチを自分で決めることができるのがいいな」

いつもクラッシックとジャズの両方をやっていた。 高校時代には、マクドナルドがスポンサーのジャズバンドにはいって、 アメリカのほとんど全土を回っていたという。 だから「三年生のときには、ほとんど学校に行ってなかった」ほど。 大学時代にはメキシコやドイツのハイデルベルクで 演奏していたこともある。

「オーケストラのトロンボーン奏者になりたかった。 僕はオーケストラが大好きだけど、はいるための練習があまり好きじゃない。 シンフォニーのセカンドパートとかの練習は、それだけじゃ意味がないでしょ? それだけの練習はいやだった」

三年下のチャンドラさんが学部を卒業するまで、大学院で作曲の勉強をしたり、 後進の指導をしたり。 そして二人は結婚。 折りしも日本語の学校でネイティブなひとを先生に招ぶ制度があり、 チャンドラさんが行くことになった。 そして、一九九三年七月に二人は群馬の笠懸町にやってくることになる。 ちなみに、ちゃんドラさんは日米のハーフで、三歳まで東京で育っている。

チャンドラさんは学校で教え、ローリーさんは東京のライブハウスに行くことが 多かった。せいぜい一年くらいの滞在予定だったのだが、 たまたま酒蔵などを改装した、桐生市の有鄰館で演奏する機会があり、 すっかりそこが気に入ってしまった。 結局、拠点を東京ではなく、桐生市に移すことになる。

「これまで何年かジャズの歴史をたどるコンサートをやってきた。 でも今年からは『現在』の音楽、僕がつくったものを中心にやりたい。 レコードでは聴けない音楽、はじめて聴くチャンスのある音楽を」

いまローリーさんにはひとつのプランがある。 古い建物を借りて、そのなかで音楽教室や小さなサロン、 レコーディングスタジオを設置することだ。 群馬は昔、織物をアメリカに輸出していた土地柄でもあるので、 アメリカ人が二十一世紀に向けて、 そこで新しい文化交流ができればいい---そんなふうに思っている。

「小学生のためのブラスバンドもやりたい。 イーストマン音楽大学のメソッドを使ってね。 ヴァイオリンの鈴木メソッドに似ているけど『耳』から音楽にはいってゆくものだよ」

では、ローリーさんにとって、音楽はどんなもの?

「音楽は・・・説明できないかな・・・音楽はスピリチュアルなものと思うけど、 見えないでしょ。タッチもできないですね。 自分のなかで気持ちがでるんです。 空気とおなじ・・・みんなにじゃないと思うけど、スピリチュアル・フード・・・」

2000.3.24
「アサヒグラフ」より


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