| JAZZ批評No119(P32-37) 「森泰人 スタン・ゲッツを語る」 スタン・ゲッツ・カルテット最後の欧州ツアーを共に奏でた森泰人が語る |
| 1981年以来スウェーデンと日本を股にかけて活躍中のベーシスト、森泰人。近年は"スカンジナビアン・コネクション"というシリーズ・コンサートで、ラーシュ・ヤンソン(p)ウルフ・ワケーニウス(g)、ボーヒュスレーン・ビッグバンドなどを日本に紹介、レーベル"スカンジナビアン・コネクション"のプロデューサーとしても活躍している。ゲッツがカルテット編成(サックス、ピアノ、ベース、ドラムス)でおこなった最後のヨーロッパ・ツアーでベースを弾いた森氏に、晩年のゲッツについてうかがった。 |
| 「My name is Stan Getz.」 |
| 僕がゲッツ・カルテットで演奏したのは1989年です。レイ・ドラモンドがレギュラーだったんですけどスケジュールか健康上の都合でツアーに参加できなくなった。ゲッツが、後釜をストックホルムに住んでいたレッド・ミッチェルに相談すると、レッドから僕の名前が出た。後から判ったのですが、たまたまそこにギター奏者のウルフ・ワケーニウスがその場に居てそのやりとりを全部聞いている。ともかく、その場でレッドが僕のことを推薦してくれて僕に電話をしようと言うことになった。 |
| スタンから電話が入った時は、二晩連続でアンダーシュ・パーション・トリオと歌手のスティーナ・ノーデンスタムでイェーテボリのネフェルティティというジャズクラブに出演していたのです。自宅のあるイェーテボリから北に100キロぐらい離れたところにサマーハウスを持っていて、家族は夏の間はそこに住んでいたのですが、湯沸かし器が故障してその修理をする為にサマーハウスの方にいたんです。屋根裏で女房と修理していたら電話が掛かってきて長いこと鳴り続けている。女房が下に降りていって「スタン・ゲッツという人から電話よ!」(笑)。当時僕はその半年前にそのサマーハウスを買ったばかりで、電話番号を知っている人は少なかったんです。てっきり誰かの冗談だと思って、スウェーデン語で「どちらさんですか?」と聞くと「My name is Stan Getz.」っていうので、「それは判ったから、本当は誰なんだい?」とスウェーデン語でもう一回聞いてしまいました。「I'm real.....Stan.....Getz!Do.....you........know...'The Girl From Ipanema', 'Desafinado'?.....」とゆっくり喋るのを聞いてこれは本物だと!(笑)。 |
| レッドがゲッツに僕の事を推薦して、ゲッツのマネージャーが、ボーヒュスレーン・ビッグバンドのマネージャーにサマーハウスの電話番号を問い合わせて、電話してきたということが最近わかりました。 |
| 「明日、スイスのルガノで一緒に演奏しないか?」っていうんです。その晩、ネフェルティティで演奏が終わった頃、有名なヴィム・ヴィクトというプロモーション会社の社長から直接電話がかかってきて、航空券の手配の話をしてそれまで半信半疑だったのが、現実のことになりました。1日だけのトラだと思ってちっちゃなカバンを持って飛行場に行ったら飛行機が4時間くらい遅れて演奏予定時間の1時間前にやっとルガノに到着。 |
| ゲッツは82年にストックホルムでチェット・ベイカーと共演しているのですが、前日にコペンハーゲンでピアニストをクビにしてオーストラリアをツアー中だったジミー・マクニーリーを急遽よんだり、........色々とゲッツが厳しい人だという噂は聞いていましたからね! 普段、僕はあんまりあがらないのですが、正直なところ少しあがりました。 |
| それまで聴いたサックス奏者とまるでスケールが違う! |
| ホテルに着いて、ともかく借りる楽器をチェックしようと会場へ行ったのですが、最初はガードマンにゲッツのベース奏者だと言っても信じてくれなくてね。やっとのことでステージ脇の楽屋に行くと、既にモンティ・アレキサンダーのバンドがステージで演奏を始めていて、テレビの収録もやっている。「ベースはあのドラマーの後ろのフライトケースの中だ!」っていわれて本番まで楽器も弾けなかったのです。最初に会ったのはピアニストのケニー・バロンそしてベン・ライリー。その後に体格の良いオッサンが来て、それがゲッツだった。僕の思ってたゲッツ像より大きな人だった。 |
| スタンはにこやかに「よく来てくれたね!」と言ってくれました。イェーテボリでボーヒュスレーン・ビッグバンドのマネージャーに「背広を着ていったほうがいいんじゃないか」といわれたので背広を着て演奏しようとしたら「何故そんな堅苦しい恰好してるんだ」ってゲッツに言われて、結局、普段着で演奏しました。他に何も持って来なかった!(笑) |
| 演奏が始まる直前、ケニーと少し打ち合わせをしたんですが、「何をやるかははっきりわからない」という言い方をされました。これはやるだろうって自分(バロン)のオリジナルは持ってきてましたどね。「ジョアン・ジュリア」って言ったかな、ボサノヴァ風の曲とか、有名な「ヴォヤージ」とかです。 |
| ゲッツは毎回「ジョアン・ジュリア」を演奏する時に"ヴェリー・ナイス・ブラジリアン・コンポーザー、.......ケニー・バロン!"って冗談めかして紹介していました。それまで見たこともない多くの聴衆を前に無我夢中で演奏しました。 |
| スウェーデンにはエリック・ノルストロームというテナー・サックス奏者がいて、50年代、60年代から、随分ゲッツに可愛がられたんですよ。ゲッツと一緒に演奏したこともあって、フレーズも、ものすごい似ている。エリックともよく演奏していたので、「今一緒に演奏しているサックス奏者はゲッツではなくてエリックなんだ!」とあがらないように暗示をかけて(笑)。だけど耳に入ってくる音がどうしてもエリックと違うんですよ。迫力が違う。そして音がもの凄く大きい。メリハリがあるっていうかピアニッシモからフォルテシモのスケールがそれまで聴いたサックス奏者とまるでスケールが違うのです! |
| アンコールは、Fのブルースだといわれて始めたら、チック・コリアの「マトリックス」。この時の演奏は、後にビデオにもなっていますが、そのブルースのクレジットは「ブルース・フォー・ルガノ」になっていました。(笑) |
| 演奏が終わると、ゲッツが「You did great jobb!」とニコニコした顔で云ってくれました。 |
| 「明日お前(森)とケニーとベン(ライリー)は電車でシュトラスブルグに行って欲しい。俺は今からニースに戻るけど、シュトラスブルグで待っててくれ。」といわれました。僕は1日だけのトラだと思っていたし、ストックホルムのジャズ・フェスティバルでマリア・エリクソンという歌手と出演することになっていたからそのリハーサルが入っている事を話すと「シュトラスブルグの後、ストックホルムへ行くから問題ないだろう!」とゲッツにいわれて参加することになりました。 |
| ご承知の通りシュトラスブルグはフランスですが、その頃はフランスと日本は関税問題か何かが原因で、日本人は観光で入るにしてもビザが必要だと聞いていました。電車に乗っている間中その事ばかり考えていたんですが、無事入国できました。僕がフランスに行ったのは7月2日でしたが、なんと7月1日にその制度が撤廃になったそうです。 |
| ゲッツがコントラバスを買ってくれた! |
| シュトラスブルグのフェスティバルは、本当に大きな音楽祭で、世界中のクラシックのオーケストラもアーティストも有名どころばかり! ジャズはゲッツ、ジミー・スミス、マイルス・デイヴィス、カウント・べイシー楽団等これまた有名どころばかり。日本人がマイルスのバンドに参加しているとプログラムに書いてあった。それがケイ赤城さんだったりね。ホテルで髪の毛の長い日本人に会ったので「Are you Kei Akagi?」って英語できいたら「はい、僕ですけど」って日本語で戻ってきた(笑)。ロビーの横のバーにはピアノがあり、カクテル・ピアニストが演奏していたのですが、僕とケニーがリハーサルをする為にコントラバスもどこかから持ってきてあった。ピアニストが、「今、マイルス・バンドのキーボード奏者と、スタン・ゲッツのベーシストがここにいらっしゃいますから演奏して頂きましょう!」二人で一時間位、デュオでジャム・セッションをやりました。 |
| シュトラスブルグの会場はものすごく立派なコンサート・ホールでした。1部がジミー・スミスで、2部がゲッツ。スミスは骨折したのか、左手を吊っていて、ベース・ラインが弾けないんです。それでマネージャーが僕のところに来て「スミスとも演奏してくれないか」というんです。僕にとっては2回目のゲッツとの仕事でしたので、一寸渋っていた。「ゲッツがOKと言うならやってくれないか?」と云う事になり、ジミー・スミスと演奏するのも滅多に出来ない経験だと思って、結局、僕は出ずっぱりで演奏することになった。ジミー・スミスとスタン・ゲッツのバンドを、冬物のスーツを着て、汗だくでやりましたよ。数千人は入る大コンサート・ホールで、階段にも人が溢れて座っている超満席状態! この日、僕が借りた楽器は、夏休みで故郷のシュトラスブルグに来ていたパリのオペラ座のベース奏者が持っていたベースなんです。ピックアップが無いので僕も昔風にマイクを立てて演奏したら、ゲッツもマイク無しで吹いた! あの日の演奏は、ともかくスタンの音の凄さに驚きました! |
| コントラバスはフルサイズの古い素晴らしい楽器だったんですよ。ゲッツもその晩のベースのサウンドを非常に気に入って、翌日、飛行機で隣り合わせに座ったら、ゲッツから一枚の紙切れを貰いましてね。見てみたらそのオペラ座のベース奏者の電話番号だった! そのベースの持ち主の電話番号をマネージャーを通して調べさせて、僕に「昨晩のベースは素晴らしい音だったから、あのベースを買え!」って言われました。 |
| 後年、その話をレッド・ミッチェルに話したら、「スタンにもそんな親切なところがあるのか」って驚いていました! |
| もちろん僕が一緒にツアーしたときも音楽には厳しかったですよ。ステージの上でただ楽器を演奏しているだけ、というのは許さない。コミュニケーションがないと「何も起こらないじゃないか。何やってるんだ!」。ステージ外ではすごく穏やかな人だなと僕は思いましたね。空港に朝の5時に集合ということも多かったけれど、機嫌も良かったし元気そうだった。時間があるときは若いフィアンセとよくショッピングをして、僕も一緒にと誘ってくれました。ホテルでよく練習をしているゲッツのメロディーが、今も耳に残っています。サックスをチェックしていたのか、マイナー系の美しいフレーズを頻繁に吹いていました。 |
| もの凄い痛みもあったのだろうけど演奏は素晴らしかった |
| あの時のツアーはスタンの健康状態を気遣ってか、結構のんびりしていました。ルガノでやって、2日置いてシュトラスブルグ。2日おいてストックホルムだったかな。 |
| その後はトルコに行ったり。時々スケジュールが厳しかったですけどね。飛行機の中で僕はゲッツの隣だったことが多かったのですけど、「自分は肝臓ガンだ。9ヶ月前、医者に、もう半年しかないといわれたんだ」と言っていた。だからあの時点で3か月は延命していたわけですね。マイクロ・バイオティックっていうんですか、ゆでた野菜、海草類、玄米しか食べなかった。 時々、ディナーに招待されたけど、メニューは同じマイクロ・バイオティックのメニュー! 有名な日本人医師が書いたマイクロ・バイオティックの本があって、後年、アート・ファーマーと何回かツアーした時も奥様がガンだということで、同じ本を読んでいました。昔からゲッツのツアーにはいつもマッサージ師が同行するのです。中国系のアメリカ人女性なんですが、彼女がマイクロ・バイオティック料理も作っていました。ホテルに着くとホテルのキッチンを借りる交渉をロードマネージャーがするのですが、イタリアのホテルでは何回か僕が料理人だと思われて、キッチンに連れて行かれた! 多分、その中国系の彼女を僕の女房とか思われていたのでしょうね。(笑) |
| スタンからはスウェーデンのヤン・ヨハンソンやスコット・ラファロの話とか、色々と貴重な話も聞けました。 |
| 「イパネマの娘」とかボッサのヒット曲を演奏したのはイタリアでアンコールに1回演奏しただけです。彼はボサノヴァに飽きていたのだと思います。スタンとは「イエスタデイズ」とか「アローン・トゥギャザー」をデュオで演奏したりしました。 |
| コンコードのCD『ソウル・アイズ』に入っているのは、ツアー最終日の演奏です。息子さんの話に依ると、典型的なカルテットの欧州ツアーとしては最期のツアーだったそうです。 |
| 末期ガンで医者がサジを投げちゃっていたわけでしょう。もの凄い痛みもあったのだろうけど演奏は素晴らしかった。音色、音量、音楽性全ての点で桁違いに凄かったです! 僕が演奏した翌年(90年)も、シンセサイザーを入れたグループで欧州ツアーを行い、更にその翌年(91年)、『ピープル・タイム』をコペンハーゲンで録音している。亡くなる直前まで、自己の音楽を追究していたスタン・ゲッツは偉大だと思います。 |
| 白夜のストックホルム・ジャズフェスのフィナーレで「ディァ・オールド・ストックホルム」を演奏し、曲が終わった時に聞こえてきた船の汽笛に併せて、同じ音をサックスで「ボーッ」と吹いた音が、今も忘れられません! |
|
|
| (ききて・原田和典) 森泰人掲載記事 JAZZ批評No119(P32-37) 「森泰人 スタン・ゲッツを語る」 |
|
|